2025年11月14日
割り切りへの所感
先日、近所でブックオカをやっていたのでコンビニへ行くついでに寄ってみた。興味深い本がたくさんありましたが、去年買った本も一昨年買った本もまだ読んでいないことを途中で思い出したので、コンビニでワンピースの新刊を買って帰りました。
ぼくは中学生の頃にワンピースの単行本を買い始めた。当時はあくまでも話の規模が大きくて面白いというのがその理由だったので、涙を誘うような演出に対して冷笑的な態度を取っていました。でもいまはそういう場面が刺さるようになった。
これは自分が曲を作るようになったからだと思います。自分が作品を作っていることによって、多少演出が過剰に見えたとしても、読者を楽しませることに対する誠実さの方が刺さるようになったということです。
夏から続いていたライブ月間や東京遠征、デザイン案件などが終わり、ここ最近は国内の大衆向けドラマを観ているのですが、それにも同じことを思いました。
例えば「逃げるは恥だが役に立つ」は家事に賃金を支払う契約結婚から次第に恋愛へと発展する話で、そういった非現実的な設定という娯楽作品としての割り切りがあることで、作品へ感情移入しやすかった。現実では起こり得ないような前提によって、作品全体を暗喩として共感しながら楽しむことができました。
そしてエンディングの恋ダンスによって、大学時代に星野源のコピーバンドでベースを弾いたとき最前列の女子がみんな恋ダンスを踊り始め、この一回のライブのために練習したんだから踊らずに聴いて欲しいと思ったのを思い出すこともできました。
「逃げるは恥だが役に立つ」とは対照的に、今週配信で観た映画はとても直喩的でした。若者の実態をそのまま切り取ることによって、制作当時の社会的な問題や風潮を描くのが主題の映画だったのだと思います。しかしあらゆる場面に共感という罠が仕掛けられている気がして心地が悪かった。それは共感ではなく既視感だという気もします。社会という切り口から現実的かつ直接的な描写をそのまま作品にすることの意義がいまのぼくには分からなかったです。
そう考えると、どこかの誰かがその人自身について書いた曲を聴いて感動することは、暗喩による共感です。他人の個人的観点という切り口で語られる作品は、自分ではないという前提によって、娯楽作品において過剰な演出や非現実的な設定が担っているような割り切りを、根本的に備えることになっているのかも。自分に起こったことを現実と捉えるなら、他人は非現実の最小単位なのかもしれないです。